Box
幅mm/
高さmm/
奥行mm
265/320/50
額
240/300/35
作品
95/160
1859年、著書『種の起源』てチャールス・ターウィンは進化の理論を確立した。
その遺伝子を受け継いたGwen Raverat クウェン(1885 - 1957)は版画の中に光と影の美を表現 し、Lucy Raverat ルーシー(1948 - 現在)は宇宙における人間の存在や状況を色や形て表現し た。鋭い観察力を受け継いた”ターウィン家の二人”そんな二人の作品を、クウェンの貴重な1909年の作品やからルーシーのコラージュ(assemblages)作品まで市場に出回っていない貴重な作品を今回限り出品いたします。
Gwen Raverat クウェン・ラウェラ 英国生まれ 木口版画家
1885年にチャールスターウィンの孫娘としてケンフリッシに生まれる。 1908年から1911年はスレイト美術大学て油絵を、独学て木口木版画を学ふ。 ハリのソルホンヌ大学に留学し1911年フランス人の画家、シャックと結婚する. シャックは1913年に多発硬化症と診断されたため、1920年に健康を考えて南フランスの街、ウェンスに移る。 その時期、ウァーシニア・ウルフとの交流か深まり二人の晩年の助けとなり作品にも影響を与える。 シャックか若くして病死した後クウェンはケンフリッシに戻り、物語の挿絵や木版画の制作に集中し 象徴主義的な光と影を木口木版画て表現した作品を数多く制作し先駆者として評価される。 1952年には数多くの知識人を輩出したターウィン家の人々をケンフリッシを追想しなから、 子ともの眼てその内側から描き出した時代?物を書き、英米てヘストセラーとなる。 1957年にケンフリッシにて亡くなる。
伝統と個人の才能 ―「ケンフリッシ・マフィア」とイキリス文化の底力―
想像のネシを一世紀?前に巻き戻してみよう。
1900年秋、夏目漱石は熊本時代?に知り合った英国国教会宣教師の親族の伝手て、ケンフリッシ大学ヘンフルック・コレッシの聖職者アントルー スを訪ねている。2年間の予定の留学先は未定てあった。日本ては英文学者として有望な漱石も、「紳士」養成の場てある同地に自分の居場所はな いと感して、ロントンに居を定める。
オクスフォートとともに学問の府てあるケンフリッシの起源は中世に遡る。二重構造を特色とし、大学と約30にのほるコレッシとて成り立つ。 異なる時期に教会、王侯貴族、個人の寄付者や財団なとによって創設されたこれらのコレッシは、お互い独立性を保つ一方、他方てコレッシ間相 互ならひに大学と連携して、有機体のように機能する。かつて数世紀?もの間、まるて修道院のように、学者も学生も知的生活共同体としての個々 のコレッシの壁の中て探究や学ひに勤しんていたか、学問の進化と専門化とともに、19世紀?末まてには大学における学科や学部の組織化か進めら れた。
漱石かケンフリッシを訪ねたとき、クウェン・ラウェラ (1885-1957) は15歳。チャールス・ターウィン (1809-1882) の次男にあたる父ショーシ は、ケンフリッシ大学の天文学・自然科学教授てあるとともに、トリニティ・コレッシのフェロー。一家は、今日ターウィン・コレッシ(1964年 創設)となっている、表の北側は往来の激しいシルウァー・ストリートに面し、南側はカム川に面した邸宅「ニューナム・クレンシ」て暮らして いた。漱石か訪ねたヘンフルック・コレッシは至近距離に位置するか、ケンフリッシに一夜の宿をとったたけの漱石との接点はありようもない。
クウェンは幼少時から、客として家に集まる著名な学者や文人を身近に見なから育った。物質的にも精神的にも豊かな環境は無限の可能性を保 証しているように思えるか、時代?のさまさまな社会的慣習かクウェンの憧憬にとって抑圧・束縛となる。ケンフリッシには二つの女子コレッシか 19世紀?後半に創設されていたか、女性は「家庭の天使」となることか期待されたウィクトリア朝にあって、ケンフリッシは依然として男性中心社 会てあった。時代?は女性参政権運動以前てある。クウェンの場合、並外れた個人的才能をもってしても、女性として芸術の道を志し自立すること かいかにたいへんなことてあったか、想像に難くない。
クウェンか生い立ったケンフリッシの文化風土は、他のとの時代?に比してもとりわけ豊かてあった。有名な「使徒会」は、起源か19世紀?末に遡 り、多岐にわたる知的話題についてティヘートを行う秘密結社として知られる。会の一員てあるG. E. ムアのことはにあるように、何にもまして
「人と人との交わりの喜ひと、美しいものを楽しむこと」をもっとも重要な価値基準とした。当時の「使徒」の多くは、やかてロントンに出て交 友の輪を広け、活動の拠点とした地域の名にちなんて「フルームスヘリー・クルーフ」と呼はれることになる。ストレイチー、フォースター、メイ ナート・ケインス、ロシャー・フライ、タンカン・クラント、クライウ・ヘル、その妻となるウァネッサ・スティーウン、ウァネッサの妹ウァー シニア(レナート・ウルフの妻となる)なとか名を連ねる。
クウェンは身近てこれらの人々と直接間接に接しなから生きていた。夫となるシャック・ラウェラと出会い、結婚して夫の母国フランスに渡り、長年にわたり多発性硬化症て苦しんたあと早逝するシャックを看取ることになる。イキリスに帰国後は、ケンフリッシ近郊のハール トンて制作に従事する。最晩年を過こしたのは、あの懐かしい「ニューナム・クレンシ」と地続きの「オールト・クラナリー」においてて あった。この時期に書かれたのか、ケンフリッシての少女時代?を回想した自伝、『ターウィン家の人々――ケンフリッシの思い出』てあ る。
「フルームスヘリー・クーフ」の人々は、ウィクトリア朝の社会的・文化的環境の中て生まれ、不可避的にその価値観を身につけて育っ たか、その思想と実践において、その価値観から脱却しそれに反逆することを通して新しい価値観を創造した。それはクウェンについても 共通して言えることてある。
ルーシー・ラウェラ(1948 - ) の母はクウェンの次女ソフィー、父M. G. M. フライァ はケンフリッシの動物学者・昆虫学者て、クウェン の父と同しトリニティー・コレッシのフェロー。 歴史を振り返ると、ウィクトリア女王崩御の1901年を境とした19世紀?から20世紀?への移行以上に、20世紀?前半から後半への移行は、イキ リスの社会と文化に大変動をもたらした。戦勝内閣の首相てあったチャーチルか率いた保守党に替わり、労働党の単独政権か社会政策を通 して社会の平等化を目指した「福祉国家」は、以後、政権か交代?しても守られる「国民的合意」となる。その社会的・文化的影響は、下か ら噴き上けるエネルキーとなり、伝統文化に対する対抗文化としてほとなく現れる。それは1950年代?から1960年代?にかけて高まり、芸術、 ファッションなとを通して開花した。西欧中心主義に対する東洋(イント)への聖地巡礼、60年代?末に世界を席巻した学園紛争。これらは 一つの流れとして同根てある。
ルーシーか生活をともにしてきたアントルー・ローリンソンは、西欧人として東洋(イント)思想を宇宙哲学として普遍化した人てある か、その活動の軌跡はこのような時代?の流れと軌を一にしている。ルーシーの作品は個人の豊かな芸術的感性の産物てあり、時代?の潮流に 還元?して済ますことのてきる性質のものてはないか、伝統を背負いなからそれを超えて個人の才能により革新を遂ける点において、祖母の クウェンと共通する。
ケンフリッシには幾世代?にもまたかって傑出した人材を輩出する一族か複数存在する。ターウィンも含め、ほかにケインス、チャトウィ ック、ホシキンなとか例として挙けられる。これらの一族は、敬愛をこめて、「ケンフリッシ・マフィア」と呼はれる。これら一族の人々 の偉大な業績と成果は伝統として保持されるか、そもそも業績と成果は革新からはしまる。言い方を換えれは、伝統は革新を、そして革新 はそれを遂行する個人の才能を前提として成立する。
翻って考えてみると、産業革命の起爆剤となったのは、インクラント中部て組織された非国教徒の知識人か組織した団体「月光協会」に 集まった人々てあった。そこには、クウェンとルーシーの祖先にあたるエラスマス・ターウィンやショサイァウェッシウットか含まれる。 チャールス・ターウィンの進化論は、英国国教会の正統キリスト教信仰と相容れない結果となった。それは天動説から地動説への大転換に も匹敵する革新的大事件てあった。ターウィンからクウェンを経てルーシーに到る5代?にわたる一族の歴史は、伝統を背負いつつ革新を遂 ける個人的才能の顕著な系譜を形成しているか、伝統は革新を前提とし、革新は個人の才能を前提とする。そこにイキリス文化の底力を見 ることかてきる。
山内 久明?
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Ph. D. (英文学 1975)
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クウェン・ラウェラ (1885-1957)
クウェン・ラウェラは、進化論のチャールス・ターウィンの孫娘として、ケンフリッシに生まれた。ターウィン家は 代?々、科学者の家系て、チャールスの祖父・伯父たち、そして父も兄も、みな科学や医学の道を歩んた。チャールスの息 子たち、クウェンの父も叔父の二人も科学者て、またクウェンの弟をはしめとする次の世代?にも、さらにその次の世代?に も、科学者か多く、名前はターウィンてなくてもターウィン家の一族かすらりとケンフリッシ大学の科学の分野て活躍し た。いっほう、作曲家のウォ―ン・ウィリアムスをはしめ、芸術家・文化人も大勢いた。ターウィン家は製陶て名高いウ ェッシウット家と二代?にわたって、チャールス自身を含めて三組の結婚かあり、そこから科学と芸術における創造的な才 能か輩出したのてある。クウェンは画家のシャック・ラウェラと結婚し、二人の娘か生まれたか、二人とも画家て、さら に次女のソフィーの二人の娘たち、エミリーとルーシーも画家となった。
クウェンは幼いときから絵を描くのか大好きてあった。レンフラントを崇拝し、トマス・ヒュイック(18世紀?末に木口 木版画の技法を確立したといわれる木版画家)に憧れ、毎週のテッサン教室て、絵を描く喜ひといろいろな抑圧からの解 放感を味わった。わすかな時間にも、夢中て絵を描いていた。クウェンの望みは、ロントンのスレイト美術学校て絵の勉 強をすることたった。しかし、当時の社会てはまた、女性か絵を描くことは趣味としてけっこうたか、職業とするのは好 ましくないとする風潮か強かった。上流の家庭てはとくにそうたった。しか も、ターウィン家は科学者の家系てある。 フロの画家になるための勉強なと考えられない両親とのあいたには、かなりの確執かあったにちかいない。(祖父母も母も 画家という環境て、自分も画家になることかこく自然たったルーシーとは、状況かまったくちかっていた。) 女は結婚して 子ともを生み育てるのか最大の幸福とする時代?にあって、クウェンはフロの画家をめさし、実績をあけた女性の先駆者て あった。ようやく両親を説得して念願のスレイトに入学したクウェンは、本格的に美術を学んた。テッサンと油絵か中心 たったか、やかてレンフラント、テューラー、ホルハインへの興味を通して、木口木版画に興味をもつようになった。初 期の作品、従姉妹フランセス・ターウィンの2冊目の詩集『春の朝』(Spring Morning)の表紙と7枚の挿絵は、清?新な 木口木版画てある。
木口木版画は18世紀?末にヒュイックによって技法か確立された。それまて一般的たった、木目にそったやわらかい版木に 彫る板目木版画とことなり、ツケなとの堅い材を輪切りにした(木口の)版木に、繊細な刀て彫り、緻密て奥行きを感し させる小世界を創りたす。(クウェンはこの二つを区別せす、とちらも木版画(woodcuts)と呼んた。)19世紀?に本の挿 絵として黄金時代?を迎えた。19世紀?末には急速に発達した写真に取って代?わられたか、複数部数をつくるための役割から 解放された木口木版画は、アート表現の手法としてよみかえろうとしていた。ちょうとこの時期に木口木版画を始めたク ウェンは、このシャンルのリハイハルに重要な貢献をすることになったのてある。クウェンの引きしまって緻密な小さな 版画は、清?新なインハクトかあり、初めから好評たった。折しも木口木版画のリハイハルに着目していたマルコム・サラ マン、ハーハート・ファーストなとの美術評論家によって、才能とオリシナリティと技術を高く評価された。ファースト は、クウェンの版画は絵を版木の上に置き換えるのてはなく、版木のなかにもともとあるテサインを彫り出すものたとい い、自然のなかの光の美しさを表わし、深い感情と自由な想像力を表現しえている、と讃辞を惜しまなかった。クウェン の版画は構図か新鮮て美しく、神秘的あるいはロマンティックな雰囲気かある。小さな枠からはみ出しそうな伸ひやかな 線、おおらかな力強さ。卓抜な技術をもっていたか、単に技巧に走ることはなかった。簡潔な手法て表現する光と影―― 日光、月の光、暖炉やろうそくの光、水面に映る光――の見事さは、特に高く評価されている。1920年の木口木版画家協 会の設立に際しては、設立メンハーの一人となり、協会の活動に積極的に参加して木口木版画の発展に貢献した。
スレイトてクウェンはフランス人のシャック・ラウェラと再会した。二人はそれ以前にケンフリッシて出会っていた。 シャックは「ネオ・ヘイカン」(新異教徒)と呼はれるクルーフの一人て、中心人物の詩人ルーハート・フルックの親し い友人たった。かれらは文学、とくに詩やシェイクスヒア、演劇や芸術に興味をもつ才気あふれる若者たちのクルーフ て、マーロウの『ファウスタス博士』やミルトンの『コウマス』を上演した。シャックは『ファウスタス博士』のメフィ ストフェレスを演した。クウェンと従姉妹のフランセスも垂れ幕や衣装のテサインて参加した。他にも、ロシャー・フラ イやウァーシニア・ウルフなと「フルームスヘリー」と呼はれた人々、画家のスタンリー・スヘンサー、また異色の版画 家エリック・キルなとと、多彩て華麗な交友関係かあった。
スレイト美術学校て再会したクウェンとシャックは急速に親しくなり、結婚することになった。シャックは若いころか ら病身てやかて多発性硬化症と診断され、気候のよい南仏のウァンスに移住した。二人はそこて風景や街、人物なと新し い題材を油絵と木口木版画て描いて新境地をひらいたか、シャックの病気は悪化の一途をたとり、車椅子の生活となる。
クウェンは二人の娘をかかえて夫の介護に追われつつも、制作の手をゆるめなかった。治療法かなく、回復の見込みか ない病人てはあったか、シャックも制作を生きかいとし、疲れると『戦争と平和』『悪霊』『ローマ帝国衰亡史』なとの 古典やウァーシニア・ウルフの新作をクウェンに読んてもらい、自分てホートレール、ハウスマンの「シュロフシャの若 者」やルーハート・フルックの詩を読み返し、また多くの友人たちと頻繁に手紙を交わし訪問を受けて、文学や美術や音 楽、社会なとについて熱く語った。とくにウァーシニア・ウルフとの頻繁な文通か心の支えとなった。他にも、アント レ・シット、ホール・ウァレリー、シェフリー・ケインスなとの訪問と文通、ルノワールの息子や地元?の画家たちとの交 流、コールスワーシー・ロース・ティッキンソンの訪問とその後の文通なとか、シャックを支えた。不安と挫折感、激痛 に悩みなからも、シャックは画家として、知的にも精神的にも創造性ある、最大限の生きる努力を続けたか、長い壮絶な 闘病生活のすえ、40歳の若さて亡くなった。クウェンははけしいうつ状態に陥り、しはらく脱け出すことかてきなかった か、幼い二人の娘たちと、ウァーシニア・ウルフとフルームスヘリー・クルーフの友人たちか心の支えになった。
やかてクウェンはイキリスに戻り、仕事に集中することて心の平静を取り戻そうとした。木口木版画家協会の版画展に は毎年出品し、たひたひ個展をひらいた。油絵も、クルーフ展や個展て精力的に作品を発表した。1928年には、油絵と木 口木版画の他に、リトクラフやテッサンも含めた大きな個展をロントンてひらき、タイムス紙て大きくとりあけられ、高 く評価された。またウァーシニア・ウルフの紹介によって、「タイム・アント・タイト」という週刊雑誌に木口木版画、 後には美術評論と書評を寄せることになった。女性たけの編集による、フェミニスト的な論調のこの雑誌に参加すること によって、クウェンはレヘッカ・ウェスト、ウェラ・フリテン、ウィニフレット・ホルトヒーなと、当時もっとも急進的 といわれた女性作家たちと歩みを共にした。
1929年にクウェンはケンフリッシの郊外の村ハールトンに居を定め、ケンフリッシとの絆と心の平安を取り戻した。仕 事の上ても円熟した充足の時期となった。本の挿絵という新たなシャンルに挑戦し、『タフニスとクロエ』のみすみすし い、牧歌的な木口木版画のシリースをはしめ、『ケンフリッシ版 子ともの詩集』、A.G.ストリートの『農夫の喜ひ』、フ ランセスの詩集『山とモクラ塚』なとの挿絵を次々と制作した。さらに、自身の子とも時代?の愛読書、エリサヘス・ア ナ・ハート作の『家出娘』に、魅力的な挿絵を60枚も制作した。『鳥のお守り』は祖母の兄、ヘンリー・ウェッシウット 著のイントを舞台にした物語て、クウェンは多色刷りを試みて、豪華本を創りあけた。その他、ケンフリッシ周辺の建物 や風景、ロントン周辺の風景なと、精力的な制作を続け、20世紀?前半の木口木版画、とくに1930年代?を代?表するアーティ ストと見なされている。
第二次世界大戦か始まると、クウェンは仕事を中断し、戦時協力として4年間にわたって、海軍情報部の手引書の地図 の制作に従事した。木口木版画やヘン画て培った技術か役に立った。戦争か終わり、娘たちか結婚して家を出ていくと、 一人になったクウェンは、生まれ育ったニューナム・クレンシの敷地にあるオールト・クラナリーに移った。ここて書か れたのか、子とも時代?の回想記、『ターウィン家の人々――ケンフリッシの思い出』(原題 Period Piece: A Cambridge Childhood 山内玲子訳 岩波現代?文庫)てある。
この本はウィクトリア朝末期の上流階級の人間模様をいきいきと描いてとひきりおもしろい読み物てあるか、クウェン 自身についても多くを語っている。この時代?の良家の女性か縛られていた道徳観や淑女の型にはまりきれなかった―はま ることを拒否した―少女か、ときには壁にふつかりなからも、はっきりした自意識を主張している様子か、ウィットとユ ーモアに満ちた筆致て描かれる。レティを縛りつけていた抑圧のシンホルは、コルセット。クウェンはコルセットをつけ られると、さっさと別室へいって外す、それかはれてまたつけられる、また外す・・・悲しくもおかしいイタチこっこに 代?表されるクウェンの抵抗は、多くの読者の共感を呼んた。人物や当時の服装・家の内装なとをたくみに、ユーモアたっ ふりに描いたヘン画もあいまって、この本はたちまちヘストセラーのリストに入った。出版されて以来60年以上にわたっ て、一度も絶版になることなく、世界中て愛読され続けている。
この本か仕上かる直前に、クウェンは脳卒中の発作に倒れ、半身不随の身となった。木口木版画は断念せさるを得なく なったか、クウェンは近くの緑地て車いすにのったまま、残された右手て何時間も絵を描き続けた。夫のシャック・ラウ ェラの晩年の姿と重なる姿て、絵を描き続けること生きかいを見出すアーティスト魂を見ることかてきる。クウェンの本 はいみしくも乳母車の絵に始まり、車椅子の絵て終わっている。
山内 玲子