本鼈甲製 バングル
外径 約7.5センチ
内径 約6.9センチ
厚
さ
約3ミリ
幅 約7ミリ(茶色部分)
約1.3センチ(あめ色部分・最大部)
女性らしくエレガントな曲線を描くオリジナルのバングルでございます。
リングのデザインにヒントを得て
わたくしの母がデッサンを描いて
おつくりしました。
全体を濃い茶色のトーンでまとめ
丸みを帯びた柔らかなV字型のセンターは
透明な濃いあめ色で仕上げています。
コントラストがはっきりしており
手首の動きに合わせまして
あめ色の位置が変わり
とてもきれいです。
さり気なくシンプルなデザインですが
上品で存在感のあるスタイルを演出いたします。
華奢すぎず太すぎず
程よい厚さでございます。
秋冬のカットソーやセーターなどにお付けいただくため
お求めいただければ幸いでございます。
母が描いたこのデザインのバングル
この形状のものはほかでは手に入らないからでしょう。
これまでに3回出品させていただいているのですが
毎回高いご評価を賜っています。
今回が4回目の出品でございます。
わたくしの手元にはもう1点 在庫がございます。
おそらく3~4年先に出品させて頂いて
このデザインの商品はおしまいということになかと思います。
同じデザインの商品在庫がひとつ減りふたつ減り
と最期の終焉の光景が具体的に見えてくるようになってまいりました。
宮大工職人と川口の職方
(2024年10月15日 お客様との往復メッセージ)
※ お客様に お送りしたメッセージ
子供の頃のお話です。
わたくしどものお店の職方 わたくしよりも20歳以上年上でした。
彼等は我が家の2階に下宿していました。
年長者は昭和19年生まれでした。
職方は祖父の弟子です。
祖父のことを 親父 と呼んでいました。
師匠ではなくて親父でした。
中学を卒業した翌日に弟子入り
朝8時から夜9時までお仕事
休憩時間は食事をとるときだけ
そしてその食事は祖母や母 女中さんが準備していました。
いまでいうところのまかない飯です。
休みは盆正月だけ
結婚して家庭を持つまでずっと住み込み
そういう世界でした。
厳しい徒弟制度
師匠は無償で技術を教えたうえにお小遣いをあげる
弟子は師匠の身の回りのお世話をする
雇用主と労働者の薄っぺらな関係性とは違っていました。
噺家の世界ではいまもこのしきたりが継承されているとききます。
お事の世界では師匠と弟子という言葉を使っていますが
師匠は弟子に
芸事を教える代償としてお金を要求する
普通の 先生と生徒の関係性です。
まさに似て非なるものです。
祖父が病に倒れたとき
祖父の排泄介助は基本的に彼等がやっていました。
わたくしには立ち入ることの許されない
祖父と彼等だけの世界でした。
※ お客様から頂いた返信メッセージ
べっ甲の職人さん、すごい修行をされているのですね。
宮大工の世界を少し思い出しました。
中学を卒業してからずっと、朝から夜まで修行・仕事をし、
川口さんのような血のつながったご家族よりも密な関係性を築いて、
人生のすべてをべっ甲細工の仕事に捧げられていたということなのですね。
圧倒される世界です。
率直に申し上げて今の時代に再現できる関係ではないと思います。
宮大工、西陣織その他の伝統工芸品の職人さんだって、
今の若い方はもっと違う教育を受けておられるように思います。
その意味で、そのような生活の上で作り出されたべっ甲細工、
仮に現在まで存続していても、当時のやり方とは違った形で作られていたかもしれません。
文化はその時代によって、環境がまったく違うので、
続いていても、出来上がった作品は何かが違うということかもしれません。
でも私のように、いろいろ知らない方は、こちらに来られる方にもいらっしゃるかもしれないので、
どんどんお書きになるとよろしいのではと思いました。
今現在長崎や東京で営業しているべっ甲店に並んでいる商品を見るにつけ
同じ人間がつくったものなのに
川口の職方が日々つくっていたものとはまったく異質
同じ鼈甲とは思えない
どうしてここまで違うのか
と不思議でなりませんでした。
お客様からいただいた上記のメッセージを拝読していて思いました。
つくりての意識 緊張感が違う
敗戦のどん底から這い上がってきた
モノづくりニッポンを支えてきた昭和を生きた人達の気概が
わたくしどものお店の商品には息づいている
そんな気がしています。
このデザインの商品はこの1点でおしまいでございます。
ゴッホ.モーツアルト.バ
ッハ
.
ベートーヴェン
存命中は鳴かず飛ばず
没したあとに時間が経ってから評価された
人達
その希少な
藝術家
の遺したものと川口の鼈甲
同じ土俵で語るのはおこがましい
ということを踏まえたうえでの
鼈甲屋の戯れ言でございます。
戦争に負けた日本がアメリカを超える経済大国になろうとしている
そんなことはあってはいけない
という理由で
日本への嫌がらせのひとつとして
絶滅に瀕している動物の捕獲禁止を謳うアメリカ主導のワシントン条約を盾に
鼈甲の原材料である玳瑁亀の輸入禁止が突然決まりました。
「ウミガメ 玳瑁 は繁殖力があるので10年ぐらい捕らなければ
増えすぎて漁船の
網を食いちぎるように
なる
漁師にとっては死活問題
苦情が殺到して捕獲は再開されてきた
だから心配しなくていい
ただ原材料を輸入に頼っている以上
突然輸入できなくなることがある
戦争はある日突然はじまる
戦争になると輸入品はみんなは
いってこなくなる
鼈甲屋はお金を貯金するのではなくて
原材料の仕入れが最優先
10年分の原材料を持っていれば大丈夫」
祖父は常々言っていました。
経験則に基づいた先人の知恵でした。
しかし
人は強いものに忖度するものです。
海部俊樹
総理大臣
は
「べっ甲業界 700人前後のとるに足らない業種
補助金を出して転職させればすむこと
米国に抗議しなくていい」
と切り捨てました。
自民党内閣で重要な意思決定を行う
党三役
総務会長の要職に就いていた
長崎一区選出の衆議院議員
西岡武夫氏から
直に伺った
メディアでは報じられることのない生々しい現場の空気です。
長崎新聞 一面下に 水や空 というコラムがあります。
朝日新聞の 天声人語 のような位置づけです。
「わたしは長崎で生まれ育った人間です。
皆様御存知かとは思いますが
鼈甲の原材料である玳瑁の輸入禁止が決まりました。
わたしはとてもよいことだと思っています。
亀の
甲羅を装飾品にする
かわいそうです。
間違っています
。
どうしてそんなことをしなければいけないのでしょう。
そして 鼈甲のどこがいいのでしょう。
わたしには理解できません。
鼈甲が好き
と言う人がどれだけいるのでしょう。
もしもそんな人がいるのであれば会って話を聞いてみたいものです
」
という 随筆が掲載されました。
結納の御品 親族への御土産として
晴レノ日には鼈甲を贈る
お世話になった方への感謝の気持をかたちにするために鼈甲を
それが古からの
長崎の風俗でありひとつの文化
でした。
九州福岡の人達が晴レノ日の祝事に博多人形を贈るの
とと同じだと思います。
贈答品として鼈甲を購入するために
1年を通して
いらしてくださっていた長崎の
お客様が
お見えにならなくなりました。
長崎でいちばん大きな老舗婦人服店
タナカヤ
の先代の奥様(田中サダさん
)から言われました。
「最近 なぜか 鼈甲に魅力を感じなくなったのよね。
どうしてなのかわからないのだけどね」
時代の空気とはそういうものです。
長崎の人達から
完全に見切られました。
当時 新聞には空気を支配して世論を動かす力がありました。
ペンは剣よりも強しではなくて
正論を振り翳して反論できない
弱い立場の人間を叩く
ペンの暴力でした。
メディアから横槍がはいったものを
晴レノ日の贈り物にするわけにはいかない
道理に叶った真っ当な判断です。
絶望 ただそれだけでした。
お店の中に不穏な空気が漂うようになりました。
観光でいらした方々の財布の紐が堅くなりました。
どんなに工夫を凝らしても買っていただけなくなりました。
そんななか 職方から言われました。
「鼈甲はもう駄目ですばい
鼈甲は終わったごたる
川口の職方 解散したほうがよかとじゃなかですか」
100年余り継承してきた川口鼈甲店としての製造の灯を消すことを決めました。
9ヶ月後 突然倒れました。
危篤状態から脱して意識が戻ったときには生命維持のための24時間透析を導入されていました。
わたくしの腎臓は寿命が尽きてしまっていました。
それから15年の歳月が流れました。
転地療法のため
故郷である港町長崎を離れて
標高1000メートル 信州浅間山の中腹に広がる高原の田舎町
長野県軽井沢町で余生を過ごすようになりました。
偶然に偶然が重なりYahooオークションに
鼈甲製品を出品させていただくことになりました。
出品されているほかのべっ甲製品の
ほとんどが
入札者0人でした。
川口の鼈甲 入札に参加してくださる方はいらっしゃらないだろう。
やって駄目だったのとやらないこと 結果は同じ
これで駄目なら諦めがつく
そういう思いでした。
最初の出品 すぐにご入札をいただきました。
そして3点目の出品のときに定価を超えるご評価をいただきました。
信じられませんでした。
長崎で製造販売に携わっていたときと寸分違わぬ力を注ぎました。
試行錯誤を繰り返しながら商品説明文を書きました。
丁寧にラッピングをして発送の過程で傷がつかないよう慎重に二重三重の梱包をいたしました。
商品によって様々ですが
発送の準備に2時間ほど時間をかけました。
長崎在住の方から 修理はできますか というお問い合わせをいただきました。
わたくしどもの商品を完璧に修理できる腕のいい職人は
現存しないと思われます
修理不可でございます
というお返事を綴りました。
修理ができないのだったらいらない
という理由で信用を失い
すべてがおしまいになる
最後の最期に長崎の人から引導を渡されるかたちで終焉を迎える
巡り合わせとはこういうものかもしれない
と覚悟を決めしました。
ところが程なくして想定外のことが起こりました。
入札に参加してくださる方が一気に増えました。
取引ナビを通して沢山の方々からメッセージを頂きました。
「もう二度と手にはいらないと諦めていた川口の商品をこういうかたちで購入できるなんて」
「アクセサリーとして身につけるためだけではなくて眺めて楽しむために買っています」
「川口の商品を並べて楽しむために照明がついたショーケースの家具を購入しました
」
「最高技術のお品で、大事にされてきた最後の素晴らしいお品
現在の私は髪を短くしていますので、髪には使えませんが、
今までのお品と共に、大事に大事に致します
」
「
使うのはもったいない 見ているだけで贅沢でゆたかな気持ちになれる」
東海地方の放送局のアナウンサーの方から
「人は生きていくためにたくさんのものを購入します
しかしほんとうにほしいと思って購入するものはほんの僅かです」
というメッセージを頂いたことがありました、
そして多くの方々から
「送られてきた商品 写真よりも遥かに綺麗でびっくりしました
暫し見とれてしまいました」
というメッセージを頂いています。
「ホンモノだけが持つ奥深さ」
という感想を沢山頂戴しました。
思えば四半世紀前 その存在のすべてを否定されたわたくしどもの鼈甲製品が
再び評価していただけるようになっている。
こういう展開になるとはまったく想像していませんでした。
それでも一度途絶えてしまった技術は二度と元には戻せません。
安くて美味しい 誰も真似のできないお料理を提供しているお店
が
コロナ禍で
廃業に追い込まれて
消えていきました。
たとえレシピのメモ書きは遺ってもそれで再生できるほど
商いは単純なものではありません。
そこに携わる人が変わればすべてが変わります。
上を向いて歩こう 遠くへ行きたい の作詞者である永六輔氏が
誰かとどこかで 旅の7円の唄 に綴った考え方
「お店に並んでいる商品は文明
そのお店の人と話をして商品を買うのは文化
ものを買うという行為は文化でなければいけないと思う
客に育てられる店があり
店に育てられる客があるように
良い関係性は両者が創り出すものなのだ
」
これがすべてだと思います。
戦後増え続けてきた人口が減少に転じています。
これから50年100年かけて
狭い
日本国の面積に即した規模に落ち着くでしょう。
そして社会が縮んでいく過程で多くの文化が淘汰されていきます。
ホンモノ と云われるものからさきに消えていく
それが世の常です。
わたくしどもの鼈甲製品
現存するべっ甲店のそれとは
まったく異質の違うものでございます。
このレベルの商品をつくれる職人はいません。
わたくしどものお店の職方が製造して遺した ホンモノ
新しくおつくりすることのできない
数に限りのある
ホンモノ
現在価格がお客様のご予算の許す範囲のお値段であれば
どうぞ 入札にご参加ください。
そしてホンモノ に触れてください。
文化に触れてください。
経済アナリストの森永卓郎氏
昨年の11月 人間ドッグがきっかけで
ステージ4の
膵臓がんと診断
桜は見られないという告知を受けたそうです。
「余命宣告を受けたとき 好きなものをたくさん食べて過ごす人
行きたいところへ旅行をして過ごす人
人それぞれ余命の過ごし方は違うと思います。
わたしはこれまで通りにお仕事をしながら最期の日を迎えたい」
ニッポン放送ラジオの生放送で仰っていました。
そのお話を聴いていて思いました。
「
森永氏は1957年生まれで現在67歳 わたくしより2歳年上
自分も森永氏のような考え方で残された日々を生きていこう」
わたくしは42歳のときに
鼈甲の原材料輸入禁止に伴う心労で
腎臓が
壊れてしまいました。
以後人工透析で日々生かされています。
お医者様(板橋中央病院腎臓外科 浦島良典先生)から伺いました。
透析は最も激しい
医療行為な
のだそうです。
腕の動脈を静脈に繋いで静脈の血流を人工的に動脈化します。
心臓に戻る静脈の血流は弱いので透析の機械で血液を吸引することはできません。
動脈化した勢いのある血液を布団針より太い注射針を腕に刺して機械に流し
毒素を
濾過してきれいになった血液を
身体の中に戻していきます。
その際 血管や心臓に強い負荷がかかります。
透析患者の生存率は10年で50パーセント 20年で10パーセントなのだそうです。
透析導入から23年
わたくしの血管や心臓はくたびれています。
心臓
や
脳に
出血
や
梗塞
を発症してもおかしくない状態です。
健康な人の場合は措置が早ければ大丈夫なのですが
透析患者は内蔵が弱っていますので助かることはありません。
Yahooオークション
「商品をお選びして写真撮
影
七顛八倒しながら商品説明を書いて出品
時間をかけて丁寧に梱包して発送
このルーティーンが体力的に厳しくなってまいりました。
今回の商品をもちましてオークションへの出品をおしまいにさせていただきます。
わたくしどもの鼈甲製品をご贔屓にしてくださった方々へ心より御礼申し上げます。
ありがとうございました」
という最期のご挨拶文を記載して
川口鼈甲店 店じまい 完全閉店
ということになるだろうと考えていました。
しかし実際には突然わたくしが倒れて皆様へのご挨拶ができないまま
店じまいということになるはずです。
茶道の言葉 一期一会 これが最期だと思って出会いを大切に
ということだと思います。
老化による身体の衰えを感じるようになった昨今
いつまでオークションへの出品を続けられるかわからない
という理由でこの1年余り毎週出品させていただいてきました。
しかしこれからは無理をせず
体調が芳しくないときには
お
休みさせていただくことにいたしました。
そして3週間ほど出品がなかったとき
川口鼈甲店 完全閉店 ほんとうの店じまい
とお察しいただければと思っています。
この商品は法人契約業者
専用
ヤマト運輸
貴重品
VIP扱いで発送させていただきます。
【修理不可のご案内】
長崎市にお住まいの方から鼈甲製品の修理についてのご質問を頂きましたので
質問と回答を原文のまま記載させて頂きます。
質問
長崎市民です。とても懐かしく、また閉店を残念に思っておりました。
購入後に使用していく中、割れ・カケなどできた場合の修理など、どんな感じになりますか?
宜しくお願い致します。(2016年10月 6日 12時 41分)
回答
ご質問ありがとうございます。回答欄は全角300文字以内という字数制限が設けられていて
うまくお伝えできない内容ですので
字数制限のない商品説明の最下部に回答を追加記載させて頂きます。
わたくしは職人ではございません。
長崎でお店をさせて頂いておりました頃は職人を抱えていましたので修理をさせて頂いていました。
しかし現在は職人を雇用していませんので修理をする術がございません。
商品の修理は造り手と同等もしくはそれ以上の腕のいい職人の手に委ねないとうまくできません。
腕の良くない職人の手にかかりますと
どんなにすぐれた製品であっても不格好で悲惨なものになってしまいます。
幼児の工作のようなハリボテになってしまいます。
鼈甲製品は二つに割れたりヒビがはいってしまっても
水.卵白.熱.圧力を駆使することで接着部分がまったくわからない
新品の状態まで変幻自在に復元することができます。
しかし腕の良くない職人ですと接着部分が微妙にわかってしまうできあがりになります。
光沢がなくなってきた商品も磨き直しをすることでご購入時と同じ状態になります。
しかし腕の良くない職人ですと表面を必要以上に削ってしまい
薄っぺらで小さなデザインが崩れておかしなものになります。
わたくしの手元にあります商品は鼈甲業に勢いがあったときの腕のいい職人によるものばかりです。
鼈甲業は原材料の輸入禁止以前に入手した材料が尽きたところでおしまいです。
ほんの一握りの腕のいい職人は高齢で廃業していき息子さんにはあとを継がせていません。
長崎市浜町アーケード街.浜屋百貨店そばで鼈甲の専門店をいたしておりましたころは
他のべっ甲店の商品であってもすべての修理をお受けして
新品と遜色ないところまでの完璧な修理をお受けしていました。
彫刻がはいったものは彫りを加えてデザインを整えていました。
わたくしの知る限り わたくしどもの商品を完璧に修理できる腕のいい職人は
日本国内には現存しないと思われます。
お使い頂いた後には必ず柔らかい布で拭いていただき
傷ついたりくもったりしないよう大切にお使い頂ければと
切望しています。
質問者様からのお返事
ご丁寧に回答頂きありがとうございます。
以前川口鼈甲さんの前を通るたび、いつか落ち着いた大人になって持ちたいな・・・
と憧れていました。
いざ大人になってみると、浜町の素敵なお店がどんどん閉店し、
鼈甲も以前に比べ、大変貴重で、職人さんも減ってしまったようで、
大切にするしかないのですね。
参考にします。
【
2023年9月 諏訪中央病院名誉院長の鎌田實先生の新刊 「ちょうどいいわがまま」 より抜粋】
「行き詰まってきたら動いてみる」 という章のなかで
わたくしどものお店のこと
わたくしが病に倒れてからいまに至るまでの経緯
そして ヤフーオークションでの営業再開
滅びゆく鼈甲という文化について触れていただいています。
「川口の生き方は 一言でいうと わ が ま ま
我 が ま ま 我が思うままに 生きたいように生きている」
と仰っていただいたのは昨年の夏でした。
わたくし もうすぐ高齢者になります。
きれいな鼈甲製品を皆様にご紹介させていただける
そういう穏やかな日々が一日でも永く続いてほしい と
思いました。
【お客様とのやり取り】
以下の商品を落札してくださったお客様とのメッセージのやりとりを
お客様にご了承いただきましたうえで転載させていただきます。
【定価
38,000
円・川口鼈甲店】新品 本べっ甲 かんざし
初めまして、落札者です。
川口鼈甲店様の商品をヤフオクでずっと前から拝見していて、素敵だなと思っていました。
当方30歳手前ですので貴方様の客人としては若い方でしょうか。
日本の女ならば己の黒髪に鼈甲の一つくらい挿してみたいと思っておりいつか手に入れたいと思っておりましたが、これからは国内に残ったタイマイが無くなっていくばかりという話を耳にしてから、購入するときに満足のいくものが手に入るのは今が最後かもしれないと思い色々と探しておりました。
本当は晴れの日につけるような派手なものが好みで派手なものばかりが素晴らしいと思い込んでいたのですが、今回のオークションの説明文を拝読して考えを改めました。
ご祖父様の「べっ甲は オーソドックスで単純なデザイン 一見 簡単そうに見えるもののほうが実際につくるのは難しい。 左右対称に見えるようにつくれる職人は少ない。」というお言葉はまさにその通りだと考えさせられました。
褻の日に使える上等なものを纏うことこそ最高の贅沢なのかもしれないと思います。
そのような贅沢を味わえるのは今回のオークションでのご縁あってこそですので、とてもありがたく思っております。
本日簪を受け取りました。とても丁寧に梱包して発送していただき、まことにありがとうございます。
子供に戻ったような心地でわくわくしながら開けました。
手に取って拝見いたしますとあまりに左右対称なので、これが人の手で圧着されて作られていることを忘れてしまうほどでした。
接着剤を使用しないでくっついているというのが不思議です。
梱包を開けた時に初めてべっ甲を触りましたのでべっ甲が少しひんやりしているという事を初めて知りました。
上白の部分と黒のコントラストが美しくてうっとりいたしました。
やはりあめ色の鼈甲は黒髪にあいそうだなと思いましたので、今からこの簪を付けてお出かけするのが楽しみです。
もうすぐ三十路の当方ですが、二十歳代の落札が初めてと聞いて驚きました。
でも確かに、鼈甲の簪と言うと旅行先の資料館に展示されていたりドラマに出てきたりするもの、という印象があり、遠い存在だと思っている若い人が多いのかもしれません。
あるいは本物の鼈甲を見たことが無く、プラスチックのものしか見たことが無いので鼈甲の美しさを知らない人が多いのかもしれません。
ですが鼈甲に興味がある若い人はこれからも居なくならないのではないかと私は思っております。
「和装が好き」という私と同じくらいの年齢の友人もおりますし、旅行先で着物を着て歩く若い女の子を見かけることもここ数年で増えてまいりました。
そういった子達の中には私のように鼈甲の装飾品を手に入れてみたいと思っている人が必ず居ると思います。
もしくは、今はただ若くてお金がないだけで手に入れたいという夢を持っているひとが居るはずです。
ですから、川口様がこれからも長く鼈甲が隆盛を誇っていたころの装飾品を販売して下さるのは本当にありがたいことだと思います。
近い将来本来なら手に入れられなくなるはずの上質で新品の鼈甲のお品を、当時生まれていなかった人でも手に入れられる幸運を将来の若い人たちに伝えて下されば幸いです。
私もまた川口鼈甲店様のオークションを拝見させていただきたいです。
若輩者が釈迦に説法のように語ってしまって申し訳ありません。
今回は素敵な簪をありがとうございました。
このような時期でございますから、どうぞお体ご自愛くださいませ。
商品到着から
20
日あまりあと ゴールデンウイーク明けの午後
着物姿でこのかんざしを髪に挿した後ろ姿のお写真が郵送で贈られてきました。
そのお写真を拝見してびっくりいたしました。
わたくしの手元にありましたときとはまったく違う別の趣がありました。
このかんざしを出品いたしますとき
人生をそれなりに長く生きてこられた方にお使いいただくことを想像していました。
そういう方々を美しく演出してくれるかんざし
そう思っていました。
しかし 実際は違うものになっていました。
老舗ブランドの着物ではなくて昨今の流行であるデザイナーブランドの着物
そしてかんざしがうまく似合っていました。
貴金属のアクセサリーは 身につける人を引き上げて輝かせてくれます。
鼈甲は 身につける方にそっと寄り添って
その方の醸し出す空気に染まる というかんじがいたします。
鼈甲は 最初 思いの外ひんやりとした冷たい手触り感があります、
しかし 特に櫛笄は 身につけているうちにその人の体温で温かくなります。
温かいぬくもりのような感触です。
20歳代の女性が身につけるとき 20歳代の方に合う趣が出てきます。
30歳代 40歳代 50歳代 60歳代 70歳代 80歳代
このかんざしは時を越えて このお客様に寄り添い馴染んでいって
その方の年齢に合った美しさを演出してくれるもの
そう確信いたしました。
【出品商品の品質について】
わたくしどもの商品は原材料に余裕があった頃にお作りしたものですので
商品にボリュームがあります。
それぞれの商品のデザインに合う色彩の甲羅を
たくさんの原材料のなかからお選びしてお作りしたものばかりでございます。
電動式万力の圧力メーターの数字を見ながら鼈甲の原材料をプレスしていくのではなくて
手動式の万力を全身の力で回しながら圧をかけて
数字ではなくて勘を頼りに微調整をかけていく
製造効率など考えないで 納得のいくまで時間をかけて彫刻を施していく
髪の毛1本分の厚さの違いやほんのわずかな鼈甲色の模様の違い
労を惜しむことなく手間暇を費やしてみても
遠目にはさして変わらないように見えたりもしますが
商品をお付けいただいたとき
その商品が醸し出す存在感や立体感において
似て非なるもの
という大きな違いがございます。
鼈甲業界に余力があるときにわたくしが体調を崩したことでやむなくお店を閉じましたので
当時の勢いのある商品が手付かずで手元にございます。
鼈甲製品の作り手にとってゆとりがあったころに制作いたしました最期の作品を
丁寧に 少しずつ そしてできるだけ永く
出品させて頂きたいという思っています。
【長崎・軽井沢・川口鼈甲店】
1997年春 郷土史研究史跡探訪グループ・長崎史楽会の会員の御老人が
西友長崎道ノ尾店で展示会をしていた会場へ訪ねて来られました。
「長崎新聞で川口鼈甲店 が 浜町のお店を閉店したことを知った。
私の先代は大正時代に船大工町の川口鼈甲店のお隣で鍛冶屋をしていた。
当時長崎の商人は目の前の商いで手一杯だった。
しかし川口の創業者は
長崎で繁盛しても東京で認められなければ自分が商っているものは本物とはいえない.
だから東京にお店を出す… と言っていた。
当時 長崎の鼈甲は外国人が買っていた。
川口はその利益をすべて東京出店に費やした。
横浜市元町と東京市新橋にお店を出した。
長崎と東京は汽車で30時間以上かかっていた時代のこと
皇族方宮内省各宮家御用達になり.昭和天皇結納品の鼈甲化粧セットを納めた。
夏季には政府高官.各国の大公使が軽井沢に避暑に行くので軽井沢に出張所を設けた。
大正12年 関東大震災で東京.横浜の支店は全焼した。
太平洋戦争の最中 鼈甲の原材料は輸入できなかった。
昭和23年 川口の先々代は神田の旅館に宿を取り
長崎県庁東京出張所所長の渡辺氏と二人 管轄官庁の門前に座り込みをして
一か月通いつめることで官庁関係者が根負けして鼈甲原材料玳瑁亀の輸入再開 にこぎつけた。
川口の先々代がいなかったら 今現在 鼈甲は日本国内の店頭に並んでいない。
太平洋戦争という地獄を経て鼈甲細工は消滅しなかった。
あなたは自分のお店の閉店は自分のお店の歴史に過ぎないと思っている。
でもそれは違う。
川口鼈甲店の生き死には 鼈甲文化の生き死にそのものなんだ。
あの悲惨な戦争を生き延びてきた。
鼈甲の原材料の輸入禁止は日米の経済摩擦によるもの
太平洋戦争とは違って経済戦争で人の命は奪われない。
経済戦争なんかで負けてはいけない。 ここで終わってはいけない。
このことをあなたに伝えなければ私は死んでも死にきれない。
今 こういうことをあなたに伝えることはとても残酷なことだと思う。
でも ここで諦めないで頑張って欲しい 」
お酒の勢いを借りてお話をしに来てくださったその御老人の言葉が
わたくしの頭の中から離れることはありませんでした。